シフクノトキ

至福、雌伏、私服。

飲むこととしゃべること

ちょっと前、でももう多分10年くらい前、他人と話すより自分ひとりでいろいろ考えるほうが愉しい、と思っていることに気がついた。もともとおしゃべりが好きなほうじゃないから、他人と話さなくても結構平気。


話したくなったら、気になるテーマの文章や本をあれこれ思い巡らせながらぐにゃぐにゃ読んで、たまにぱっと書き散らす。それをまた自分で読む。私にとっては、気の合う友だちとおしゃべりするのと同じ感覚。ある時まで日記を書いていたのは、そういうことだったのだ。


確かに何人かは話しても話しても時間が足りない、別れる時とても名残惜しく感じる、そんな人もいる。でもほんと例外。多分、会話の守備範囲がかなり被っていて、会話のペースが合うんだと思う。頻度と時間も適切なんだろう。(こっちの片思いの可能性もなくはないけど)そして一緒にお酒を飲まないっていう点も重要。


私にとって酒を飲むのは、話さなくてもいい口実。学生の頃から、話すのが面倒でその分杯を重ねる、そんなことを繰り返してきた。同じ場所で飲んでるだけで愉しかった、あの感覚は懐かしいけれど、浸っている時間がこの年齢になるともったいない。心身共に回復の時間があまりにも掛かるので。重大なコスト。


最近女子会の誘いに拒否感を覚えるのに多少困惑したのだけど、こういう理由だった。最初は楽しかったんだ、若い頃に戻ったような気分が味わえて。

いつものメンツで、発展性のない話題。私たち仲良し!って確かめるためだけの、思春期女子みたりなやり取り。お腹いっぱいだし、結構酔っぱらっちゃった。悪いけど、先出るね。お勘定、これでよろしく。

ホーム~戻ってくるところ

最近個人的な区切りがいくつかあって、正に人生回収ターン。結局戻ってくるのは『ここ』なのかと気づかされ、我ながら可笑しい。

 

若い頃は世間的な欲望に囚われていたというか、それなりに他人の目を意識していた。

一目置かれるような仕事、意識高いライフスタイル、自慢の家族。

よくある広告に踊らされ、パワーカップル継続して千代田区にマンション買っちゃおっか、みたいな。

もしくは、育児環境完璧な職場とエコ生活、湘南ライフを満喫、とか。

自分のミーハー加減に今更ながら笑える。というか冷静に振り返ると、それはそれで目指すものが一応あったんだね。大分手前で引き返したにしても。

 

あれから時は過ぎ、仕事は生活費を稼ぐ手段、生活・家族については健康第一、平々凡々大いに結構。欲しいものは元々あまりない、そこまで食べたいものもない(敢えて言えばおいしいビール飲みたい)、行きたいところはそれなりにあるけれど10年以内にどこか1,2カ所行ければいいかな、とか。教育も、お金時間気力をそこまで張り込まなくても、まぁ何とかなるっしょ。

∴そこまで頑張ることはない。

 

ある程度自分の時間が確保できるようになったのとコロナの流行が重なったけれど、我慢している気はしない。

会いたい人に会うのが難しい寂しさよりも、会いたくない人に会わなくて済ませられるほうが大きくて・・・これについては元同僚も、リモートワークの一番大きなメリット、って言ってたっけ。

 

好きなリズムの文章に身を委ねる。

休憩時間に旧東海道を歩く。

薄味でも十分美味しいと気づく。

一週間ぶりのビールは、胃だけではなくて脳にも沁みる。

ひたすらマイペースに日常の些事を愛でる、至福の時。

 

で、戻ってきた【ホーム】というのは。子どもの頃から慣れ親しんだ習慣と環境、そして元々の指向性だった。

街より自然が好き。喧騒は嫌い、静寂な環境が心地よい。お金をかけて遠くへ行くより、身近ないつも通るような何気ない道で新しさを感じたい。

そして、できるだけ今の社会システムから降りて生きていきたい。

システムに合わせることに汲々とするのではなく、私は私という【野生】をとことん生きたい。

 

昨年読んだ何冊かの本と、今年になって読み始めたこの文章を読んで、私が求めていたのはこういうことだったんだというのがおぼろげながらわかってきた、齢五十。

お遍路道は、日本社会が抱えている苦悩がわかる“脈どころ”(釈 徹宗) | 現代新書 | 講談社(1/3)

 

 

 

冬の最後の日に

今日は節分、明日は立春

寒さはまだ続くだろうけれど、気分は春に向かっている。

梅の花がそこここで咲き始めていているし、桜のつぼみも何となく膨らんできたような。

 

去年の後半はいくつかの節目・・・長男の就職内定、銀婚式、五十路・・・を迎えると同時に何かと体調不良が続き、年明けも引きずってしまった。

とうとう健診で警告を受けてしまい、泣く泣く塩分制限と節酒(決して断酒ではない)に入った。まだ4日目だけど。

 

加齢と体調不良のせいか、ますます面倒くさがりになってしまった。この先、極力やりたくないこと、付き合いたくない人は避けていこうと決めた。

そして同じく昨年思いがけず気付いてしまった自分の傾向に、少しずつでも近づけるように歩いていこう。

新年の抱負代わり。

ああ、でも旧正月だよね、今ちょうど。

あの夏の日に戻れなくとも

あれは多分高一の夏休み、海に入ったのだからお盆前のはず。

その日、Yと私は横浜ルミネのぴあステーションに始発で駆けつけ、首尾良く目当てのチケットが取れたので、いい天気だし、海でも行くか!と盛り上がったんだ。

午後一の由比ヶ浜は台風接近中で黄色い旗がはためいていた。私たちは足が届くギリギリの際でちょっとうねりのある波に嬌声をあげながら、遊泳禁止寸前の夏のひとときを存分に味わった。

 

Yの訃報は、思いがけないシチュエーションでもたらされた。仕事帰りに街角で中学の同級生とばったり出くわし、しばらく話しこんだ。その話の中で、Yがまだ幼い子どもを残して、病気のためこの世を去ったことを知った。

Yはスポーツがかなり得意だったから、健康そのものというイメージしかなかった。高校卒業後になんとなく連絡を取らなくなりそのままになっていたけれど、どこかで元気にしているものだとばかり思っていたから、つらかった。

 

大親友、というのとは違うが、多感な時期のかなりの時間を共に過ごし、思い出もたくさんある。深い話をほとんどしなかった分なのか、一緒に行った様々なイベントと彼女の印象的な笑顔を思い出す。

オフコースの武道館コンサート、高校生クイズの予選大会、スキー旅行、学校の同好会活動。あと、父の会社の懇親パーティーに誘ったこともあった。

 

それでも一番印象に残っているのは、冒頭の夏の一日なのだ。二人きりだったからなのか、思いつきで海に行ったからなのか、波に翻弄されるのが心地よかったからなのか。

もう一度会って、あの夏の日の印象をYから聞いてみたかったけれども、叶うことはない。

話したり笑いあったりすることはもうないけれど、あなたのことは忘れない。由比ヶ浜の海を見たら、あの日のことを宝物のようにそっと取り出そう。

 

こんなセンチメンタルな気分にぴったりな曲は、やっぱり“夏の終り”。

夏の終り

夏の終り

 

大型スポーツイベント開幕ということで

中学に入ってすぐの宿泊研修の会場は、前のオリンピックで選手宿舎に使われた代々木青少年センター。ジメジメした薄暗い印象、あまりいい思い出ではない。

 

翻って国立競技場、音楽イベントで何度か入ったことがある。そして何回行ったか覚えていない武道館、そっか、オリンピックのためにできたんだ、今日初めて知った。渋公は重量挙げの会場だったの?へ~。

80年代半ば、中学から高校にかけて部活代わりの放課後の【ハコ】、大きいのは前のオリンピックのレガシーだったわけか。そっか、そうだったんだ・・・

 

国立も代々木も武道館も、音楽ライブ以外では行ったことがない。武道館には一時期お稽古で地下の道場に通っていたけれど、スポーツイベント関係では入ったことがないまま。

そもそも、お金を払ってスポーツを見たことって、あっただろうか。プロ野球は父の会社が年間シートを持っていたので、それが回ってきた時に行くだけ。Jリーグもチーム関係者やスポンサー経由でチケットが回ってこなければ、わざわざ行こうとは思わない。回ってきても、会場との往復や帰りの混み具合を考えて躊躇したり。

 

数少ないスポーツイベントへの課金。まったく大した額ではないが、Fリーグにちょこっと。息子のチームのイケメンコーチが出場する、っていうので母子で車をとばして駆けつけたら、同チームのミーハー母(とその子ども)たちと会場でバッタリ。試合後寄ったマックで、コーチやっぱかっこいい!と母たちのほうが盛り上がって。ライブの後みたいだった。

 

そうそう、社会人になって間もない頃、女子温泉旅の帰り道、ちょうどオープン戦をやっている球場(ここも音楽ライブでは何回も訪れていた)のそばを通りかかり、ノリで外野席に入ったこともあった。3月の汗ばむくらいの陽気の午後、芝生の上で飲んだビールの旨かったことといったら。成人してから初めての野球観戦、故にスタジアムでの飲酒も初めてだったから、尚更おいしかった。

 

ああ、そうだ。息子の大学と私の母校が対決するというので、わざわざ神宮に足を運んだことがあった。在学中はついぞ縁のなかった六大学野球(学内のリーグ優勝提灯行列にはなんとなく参加した気はするが)。外野スタンドの入場料は500円くらい、母校の校歌や応援歌を反対側のスタンドで聞くという、なかなか乙な体験だった。惜しむべくは、スタンドでビールが飲めなかったこと。せっかく場外のコンビニで何本か買いこんで行ったのに、健全な応援スタンドでは飲酒禁止との注意書きが応援団員により掲げられていて、さすがに従うほかなかった。

 

結論めいたものとしては。

音楽イベントには若い時分にお金も時間も体力も費やして、ある種やり切った感。今後もモノによっては残り少ない気力を振り絞ってチケット争奪戦に参戦する覚悟はあるが、元春の凱旋ライブに行ってしまった今、超えてくるイベントはあるだろうか。エピックの50周年とか?

 

一方で、スポーツイベントにはよっぽどの衝動(ミーハー)と偶然(通りかかるとか)、もしくは身内系がない限り、お金を【貰っても】行かないと思う。そのくらいスポーツ観戦に興味なし。

今話題の大谷だったら…生で見るにはアメリカに行くしかないんだよね。テレビでも録画したり、夜更かししてまでリアタイで見たいとも思わない。

というか、人がやっているのを見るよりも、自分でやるほうに費やしたい。

そう、そうなんだ。私は体を動かすこと自体は好き。苦ではない。だから環境があれば自分でやりたい。

 

この先歳をとって身体がますます動かなくなってスポーツすることが叶わなくなったら、他人の姿を見て【感動】するようになることが、ないとは言い切れないけれども。