シフクノトキ

至福、雌伏、私服。

ホーム~戻ってくるところ

最近個人的な区切りがいくつかあって、正に人生回収ターン。結局戻ってくるのは『ここ』なのかと気づかされ、我ながら可笑しい。

 

若い頃は世間的な欲望に囚われていたというか、それなりに他人の目を意識していた。

一目置かれるような仕事、意識高いライフスタイル、自慢の家族。

よくある広告に踊らされ、パワーカップル継続して千代田区にマンション買っちゃおっか、みたいな。

もしくは、育児環境完璧な職場とエコ生活、湘南ライフを満喫、とか。

自分のミーハー加減に今更ながら笑える。というか冷静に振り返ると、それはそれで目指すものが一応あったんだね。大分手前で引き返したにしても。

 

あれから時は過ぎ、仕事は生活費を稼ぐ手段、生活・家族については健康第一、平々凡々大いに結構。欲しいものは元々あまりない、そこまで食べたいものもない(敢えて言えばおいしいビール飲みたい)、行きたいところはそれなりにあるけれど10年以内にどこか1,2カ所行ければいいかな、とか。教育も、お金時間気力をそこまで張り込まなくても、まぁ何とかなるっしょ。

∴そこまで頑張ることはない。

 

ある程度自分の時間が確保できるようになったのとコロナの流行が重なったけれど、我慢している気はしない。

会いたい人に会うのが難しい寂しさよりも、会いたくない人に会わなくて済ませられるほうが大きくて・・・これについては元同僚も、リモートワークの一番大きなメリット、って言ってたっけ。

 

好きなリズムの文章に身を委ねる。

休憩時間に旧東海道を歩く。

薄味でも十分美味しいと気づく。

一週間ぶりのビールは、胃だけではなくて脳にも沁みる。

ひたすらマイペースに日常の些事を愛でる、至福の時。

 

で、戻ってきた【ホーム】というのは。子どもの頃から慣れ親しんだ習慣と環境、そして元々の指向性だった。

街より自然が好き。喧騒は嫌い、静寂な環境が心地よい。お金をかけて遠くへ行くより、身近ないつも通るような何気ない道で新しさを感じたい。

そして、できるだけ今の社会システムから降りて生きていきたい。

システムに合わせることに汲々とするのではなく、私は私という【野生】をとことん生きたい。

 

昨年読んだ何冊かの本と、今年になって読み始めたこの文章を読んで、私が求めていたのはこういうことだったんだというのがおぼろげながらわかってきた、齢五十。

お遍路道は、日本社会が抱えている苦悩がわかる“脈どころ”(釈 徹宗) | 現代新書 | 講談社(1/3)