シフクノトキ

至福、雌伏、私服。

“ありがとう”“ごめんなさい”

佐野洋子さんの『シズコさん』、やっと読み終えた。
何年積読していただろう?
以前トライした時は、最初の数ページで息苦しくなって読み進めることができなくなった。
しかし今回は、丸一日ですっと読めたのだ。
この2,3年で、私自身の母娘関係も変化したのだと実感する。

通して読んでみたら、想像していたような【毒親本】とは違っていた。
幼少期の虐待がきっかけで、長きに渡って不幸な親子関係ではあった。
が、ヨーコさんはシズコさんの良いところ・悪いところ、好きなところ・嫌いなところ、してくれてうれしかったこと・許せなかったこと、そしてお互い老いを得て辿り着いた雪解け・・・
冷静に、淡々と並べていく。
時折ギョッとするようなエピソードもあるが・・・やはり妹のおしめを川で洗うところかな、おしんを甘いって思うのは相当だから・・・おそらく世間の3、4割の母娘は多かれ少なかれこうなのではないか。
特に長女の場合は。
ヨーコさんのケースはさらに、溺愛され幼くして亡くなった兄の影がつきまとうという、不運コンボ。
でもなあ、やっぱり自分が60になるまで母親を拒否し続けるのはしんどかったろう。
だから呆けてしまったシズコさんの手を擦りながらヨーコさんが自分を赦す場面は、どうしても涙なしには読めない。
(今もその場面を思い出しながら泣けてきた)

ぶっちゃけ度でいくと、昨年読んだ村山由佳さんの『放蕩記』の上をいく。
フィクションとノンフィクション、発表時に母が存命だったかどうかの差かもしれないが。

やはり母は長女を、自分の延長と扱ってしまうのだろうか。
分身、ではない。自分の手足、時には自分自身のようなものとして。
女の育てられ方として<察する>能力を重視されていた時代、が確かにあった。
でもその能力を誤解したままで実際には身につけていない人たちが、次の世代に毒を盛る。
そこに悪意がないだけに、起こる悲劇は尾をひく。

ヨーコさんの母への怒りの分析は大変共感したし、参考になった。
それにしてもヨーコさんほどの大家がここまで母との関係に拘り、苦悩していたとは。
その業が、数々の名作を生み出す原動力だったのかもしれないと考えると、私たちはシズコさんに感謝すべきなのだろうか。

一番共感した箇所はやはり、シズコさんが"ありがとう”と”ごめんなさい”をヨーコさんに言わなかったことへの恨み、だ。
豚もおだてりゃ木に登る、まったくもってその通り。
このふたつの言葉を言えない人は、何か大きな勘違いをしているのではないだろうか。
これらを口にすることは、負けではない。
むしろ、自信と余裕がなければ、目下と思っている者には言えないかもしれない。
それでも、親しき仲だからこそ、この二つの言葉が潤滑油になるのではないだろうか。
関係に甘えないこと、家族といえども境界線を意識すること。
悲劇を起こさないために、心に留めておかなければ。
(2015/10)