シフクノトキ

至福、雌伏、私服。

母というよりも

母という役割を20年やってきたけれど、“この子には何でもやってあげたい!”という衝動は、ついぞ訪れなかった。
だから、自分と反対に庇護欲溢れる人物と接すると、コンプレックスが刺激されるのか、かなり居心地の悪い思いをする。あちらは非の打ち所のない、優しいお母さんだから。

私は、手も口も出さずにしばらく観察して、相手が行き詰まりこちらへ問いかけてきて初めて、彼らの要求に応えたいと思っている。端から手取り足取りやってあげるのがどうしても性に合わない。
ある程度言葉が通じる人間相手にはそういうスタンスで臨んできたし、これからも変えられないと思う。

だから“何でもやってあげたい”“いろいろやってあげたい”という人とは、正に水と油。そのような人と一緒に何かやると…例えばPTAや少年団の役員など…こちらは楽をしているような気がしてきてしまう。手を出さずにじっと見守るのも、結構忍耐がいるのだけれど。

子育て中一番つらかったのは、断然物理的に手がかかる時期だった。子どもの手がかからなくなって寂しい、小さいままでいてほしいという母親の気持ちが、状況は理解できるけれど、共感はどうしてもできない。
子どもが一端の口を利くようになってくると、かわいくない、反抗的になって、と思うより、もっともっとかかってこい、早く追い越していけ、という気持ちのほうが強かった。

こうやって書いてくると、構えとしては<母>よりも<父>に近かったのかも。
また、私自身弟が二人いるので、<姉>の心持ちのままで子どもたちに接してきた気がしている。
私の姉としての役割は、母がどうしても手をかけられない時の補佐役。しょうがねーなー、というスタンスで関わってきた。
だから、子どもが男三人でお母さん大変ねーと他人に言われても、いやいや、実家にいた時とそこまで変わらないんですけど、と心の中で返していた。

今現在、上二人には彼女がいるみたいだけれど、どうぞどうぞ、返品はなるべく勘弁してください、としか思っていない。手塩をかけたんだから、ちょっとは淋しがれよ、自分。
でも、こういう日が来ると思って過ごしてきたから。覚悟、ほど重くはないけれど、何となく思い描いてきたことだから。

…と、こんなこと言っているけれど、末っ子が巣立つ際に引き留めたりしたら、どうぞ笑ってください。