シフクノトキ

至福、雌伏、私服。

祝・中学卒業

長男が義務教育を終えた。親として、只々めでたい。
今のご時世経済負担的にはやっと折り返し地点だけど、精神的にはだいぶラクになりそうだ。あとは進路に関する実際的なアドバイスを請われた時に与えれば、そう間違った方向には行かない気がする。
もちろん、油断はしませんよ。


自分で言うのもなんだが、周りの人も口を揃えてウチの長男を〈大人〉だと言うので、まぁそうなのだろう。
私があまりいい母親じゃなかったから大人に成らざるを得なかった、表向きはこう言っておくことにする。母性が薄くて、世話をするのが辛くて、保育園に預けたいから働き続けてきたのだ。
こんな考えなので、子どもの手がかからなくなって寂しい、小さいままでいてほしいという母親の気持ちが、状況は理解はできるけれど、どうしても気持ち悪く感じてしまう。
なぜ、子どもの成長が寂しいの?
私は、心から嬉しく思う。親として、自分も一緒に成長してきた自負があるから。


PTA会長の祝辞に違和感を感じた原因は、この私のマインドセットにある。
彼女は、これからは後ろから見守ると言っていたが、私にしてみれば今そこ? である。あそこが彼女の泣かせどころだったらしいが、こちらは開いた口が塞がらなかった。
でも世話焼きこそがアイデンティティの人には正にツボだったのかもしれない。私の母とか。


私が一貫して後方支援に徹したのは、自分自身の経験が大きい。とにかく他人の干渉が嫌い。それは今も変わらない。
だから、他人の邪魔もしたくない。全くしなかったと言えば嘘になるけれど、極力避けてきたつもり。


そう、我が子は他人。一番身近な他人だ。
子どもが生まれた時からそう感じていた。
だから一心同体状態で世話に徹する時期が、何より辛かった。その代わり、成長すればするほどに、子どもが生まれてきてくれたことへの感謝の念が大きくなる。自分もまた、成長させてもらっていることを感じて。


私の母はこう言った。
“子育てなんてつまらない。一生懸命育てても、大きくなったら離れていくから”。
愚か、としか言いようがない。
離れていくからこそ、一緒にいられる時間を大切に過ごさなければならないのに。
笑顔で送り出すのが、子どもへの最高のプレゼントなのに。
今でも子どもの内の一人を抱え込んでいるのも納得だ。自分の寂しさを優先して、子どもの手を離せなかった。
何から何まで、反面教師でしかない。


息子の同窓生たちに、将来親元を飛び立てない子が一人でも少ないことを祈る。

〈2014/03〉