シフクノトキ

至福、雌伏、私服。

世界が色を失くした日

あの日曜日の夕暮れ、いつものように買い物に向かうため家の前の横断歩道を渡った時、その猛烈な寂しさはやってきた。

自分の、今の、この大変さを話せる人がいないことに気付き、泣けてきて、周囲の色が失くなった気がした。

そんな事実に気づいたことに呆然としながら、とにかく温かい飲み物でも…本当はこのまま遠くへ行ってしまいたい…大分前にできたのは気づいていたけれど、まだ一度も入ったことのない近所のカフェ、もとい喫茶店、に向かった。

 

育休明けから数ヶ月目。夫は多忙かつ非協力的。上の子たちは絶賛反抗期。仕事は突然の退職者が出てカオス。この境遇に共感してくれそうな旧友、ママ友は皆無。自分の母親には話す気にもならない。お姑さんはいくらか聴いてくれるだろうけれど、今回は状況が複雑すぎてお互いストレスになるだけだろう。通っている鍼灸師はこの手の話が通じるタイプじゃない。近所の心療内科は薬の調整ばかりで話なんか聴きやしない…

 

ああそうか、自分でどうにかするしかないんだ。

今振り返ると、あれは一種の底つき体験だった。自分大変、可哀想!でも、そのままじゃ何も変わらない。

 

その日の夕食をどうしたのか、その後気持ちを立て直し材料を準備してちゃんと作ったのか、はたまた惣菜を買いこんで帰ったのか、まったく覚えていない。なにせ、10年以上前のことだから。

さらにあれは、更年期の入口だったとも思っている。その後も様々なトラブルはあったけれども、あそこまで強烈な孤独感に襲われたことはあの時以来ないから。

 

世界は案外早く色を取り戻した。

職場では子どもの構成が似通っていて、様々なジャンルを話題にできるランチ仲間ができた。末っ子の保育園では親同士の仲が良好で、ちょうど良い温度のお付き合いをすることができた。元々のママ友のひとりとは、末っ子が上と年齢の離れた同い年という縁でより仲良くなった。

人付き合いが増えると共に、無理をすることは減らした。職場はガマンするよりも次へ行くことを考える。家のこともムリはしない、できない時はやらない、人を頼る。子どものことも同様。

 

そして。自分の時間を確保することには遠慮しないことにした。

それまで有休を自分だけのために使うことはほぼしていなかったけれど、必要なことだから、自分のためだけに休むことを躊躇うのはやめた。

どさくさに紛れて、10年近く休んでいた飲酒も再開。積ん読も。散歩も。乗り鉄も。

あとガマンしていたことってなんだっけ。

書くこと、かな。

とにかく、やりたいことはやる。生活が色褪せないように。

 

確かに私もそこにいた

先日久々に仕事上の修羅場にぶち当たり、若干放心気味のまま遅い休憩に出た。そんな状態で偶然出会したのは、割と親しくしていたSさんとDさんだった。

 

二人とも私と同年代、子どもも同じくらいの年齢。ひとしきりお互いの無事を交歓した後誰からともなく、「子どもはどうしてる?」

もう大学生ですよー、まだまだお金がかかって。あれ、そちらも大学生?もしかして結婚しちゃった?

いや、大学が遠いって、一人暮らし。

ウチは寮に入ってる。

その時に見せた、二人の何とも言えない切なそうな表情。まさか、進学で子どもが家を出ていくなんて思ってなかったんだろうな。腐っても首都圏住みだもの。だいぶ寂しそう。なんというか、二人とも田舎に残されたお父さんの顔をしていた。

「子ども、出てったわ」。私も遠くない将来、あんな顔を人に見せるのだろうか。

 

こんな話がしみじみできるなんて、お互い歳を重ねたね。そして確かに私たちは同じ時期、同じ場所で、働きながら子育てしていたんだなあ、と実感した。

Dさんの子どもとウチの子たちは、大人に混じってボールを追いかけていた。Sさん家族とは、紅葉狩りやキャンプでご一緒したな。可愛らしい三姉妹。

ああ、いい思い出。本当に良い時間だった。

 

 

夕飯作りにこだわる理由

私が仕事を中心に据えられない理由は、夕飯が作れなくなるからだ。


朝5時に起きて朝食・弁当をそれぞれ4.5人分・4人分用意している。
この時夕食の下ごしらえくらいやっておけばいいのだろうが、私のキャパを超えていてできない。
他にも洗濯干し4.5人分(内ふたりは汚れ物製造鬼・部活生)、台所の片付けをし、夜の米研ぎだけはやっておく。朝だけで家事の時間はざっと2時間。
この後保育園児を送り届け、通勤時間30分の職場へ出勤、拘束時間8時間。
18時近くに慌ただしく職場を後にし、ごった返すスーパーで買い物、帰宅して冷蔵庫に放り込んで、自転車で保育園へダッシュ
19時に帰宅して、そこから夕食準備。どうしても食べはじめは20時近くなってしまう。
たまに惣菜や弁当、外食も利用するが、最近は反ってストレスになるので、極力作る。
育ち盛りのスポーツ男子の食べる量はハンパなく、腹いっぱい食べさせるのに出来合いは金がかかりすぎる。
冷食しかり。
こんな日々の中、大したメニューではないが食事作りに奮闘している。
残業を少しするだけで、すべてのタイムスケジュールが狂ってくる。
正社員になりたくない理由だ。


別に私は食事は母親が作るべきだとは思っていない。
父でも祖父母でもはたまた年頃の子どもでも、作れる人が作ればいいと思う。
また余裕があるなら金銭的に解決してもいいだろう。
我が家の場合は夫が料理ができないし、子どもたちは部活をやっている。
また金銭的にも厳しいので、やれる私がそうしたいと思いやっている。


滑稽なほど食事作りにこだわっているのには理由がある。
中学時代の親友の母親は、当時私の周囲では珍しいバリキャリだった。
家事育児は同居の義母に任せ、教育関連の仕事に邁進していた。
実家で購読していた新聞にたまにコメントが載るような人で、私は憧れを抱いていた。
が当の親友はアタッチメント不足だったようで、成人してから決定的に母親と決裂してしまった。
“世話をしてくれたおばあちゃんのことは心配だけど”、と言っていたのが未だに頭から離れない。トラウマのレベルだ。
これは私の勝手な思い込みだが、ご飯を作ってくれる人には、特別な愛着が湧くものなのではないだろうか?
たまに訪れるとご馳走をたくさんこしらえて迎えてくれる親戚のおばさん、学生時代に通った食堂のおばちゃん。
お正月の親戚の集まりの時には決まって美味しいご飯を作ってくれた伯母が昨年亡くなった時、ことのほか悲しく感じたのはそういうことなのだと思っている。


私はこのトラウマゆえに、どうしても思春期の子どもから“産んだだけの人”と思われるのは避けたかった。
そのために正社員の道よりも、非正規を選んだ。後悔は今のところない。
確かに稼ぎに限りがあり、子どもの望みを金銭的な面ですべて叶えてあげているかどうかは甚だ心許ない。
前述の親友は、大学卒業後さらに別の教育機関へ通い、専門職になった。
これが実現したのは多分彼女の母親も相当稼いでいたからだと思う。
親友とは残念ながら音信不通なのでその後の消息は不明だが、もしかしたらこの歳になって、母親が今から30年以上前にフルタイムで働き続けた貴さに気づき、感謝しているかもしれない。
そうあってほしいと心から願っている。


一方私は、子どもが中学に入った頃から、食事は大事だとますます確信するようになった。
思春期、特に男子中学生は呆れるほど食べる。多分、頭の中は恋愛より食べることのほうが占める割合が大きいんじゃないだろうか。
帰ってくるとまず、台所中の戸棚を漁る。手当たり次第貪る。その行動を目の当たりにすると、食事に手を抜けないと気が引き締まる。
学校の先生や警察関係者の間で、少年非行と家庭の食事事情の関連性は常識だという。
心理学者の小倉千加子も、一昨年週刊朝日〈子どもが安心できる母親は「自己実現の欲求」がない人〉という記事の中で、こう書いている。

母親がいなくなると夕食が家庭からなくなる。すると特に男の子は家に帰らなくなる。
外をふらつき回るようになることで、進学や就職のレールから外れていく。ホームとは食事のことなのである。

子どもが安心できる母親は「自己実現の欲求」がない人 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)


最近女性活躍社会推進の一環なのか、諸外国の夕飯事情を紹介する記事を目にすることがある。
曰く、ドイツの夕食は火を使わず簡素だ、中国では屋台で夕食を済ませる、など。
確かに食事の支度にエネルギーを使わなくていいなら、その分仕事に振り向けられる。
だから、日本で女性管理職を増やすためには、食事の支度からの解放というアプローチは不可避だろう。
手始めに、手間のかかる日本食文化と母親が食事を作るべきというプレッシャーを破壊する。
毎晩マック・吉牛・カップラーメンのローテーションでいいじゃない?
毎晩お惣菜を使っても家計が破綻しないよう、惣菜の値段を下げるか、買う方の賃金を上げるべきだ。
というのは極端にせよ、食事はこうあるべき、という規範を緩和しないと、食べ盛りの子どもを抱えた親は罪悪感をぬぐうことができない。
もうひとつのアイデアは、子どもたちにまともな食事を食べさせてくれる、セントラルキッチンを作る、だ。
イメージとしては、旧共産国の共同食堂。でもここまでくると、果たして家庭の役割は?という話になると思う。


という訳で、私は管理職はおろか、正社員にもなれずウロウロ派遣をしている。
母親にも自分の人生を追求する権利はもちろんあるし、現に自分もいろいろな葛藤がある。
それでも目の前で起きていることを無視してまで自分の欲求を優先させられるか、いや、この餓鬼どもは常にお腹を空かせているんですよ。
自分で何とかできるようになるまで、手助けしたいだけ。手助けが不要になる時期、見切る時期はそれぞれの裁量だけれども。


なので、いくら世間が女性の管理職を増やそうと言っても、ああそうですかとしか思えない。志高い方たちにどうぞお願いします、と申し上げておこう。
私は何だかんだ文句を言いながら、あと10年以上飯炊きのために家路を急ぐのだろう。こちらも現場で好きにやらせていただきます。

〈2015/10〉

35年前の今日のこと

1985年6月15日、国立競技場で音楽イベント“All Together Now”が催され、私も観客の一人としてその場に居合わせていた。本当は当時大好きだったオフコース目当てで取ったチケットだったけれど、トリを飾った佐野元春のステージに圧倒されてしまい、その熱に浮かされたまま翌16日、行きつけのレコード屋で『Young Bloods』の12インチシングルを買い求めた。

 

YOUNG BLOODS

YOUNG BLOODS


あの時期はBand AidUSA For Africaなどチャリティを前面に出した動きが顕著で、1ヶ月後の7月にはLive Aidもあった。だから『Young Bloods』の印税が寄付されると知った時は、こういう形で社会貢献ができることを少し誇らしく感じたりもした。
音楽に生活のほとんどを依存していた10代半ばの子どもにとって、世の中は少しずつでも良くなっていくように思える、暢気で幸せな時代だった。


あの頃と比べると現在は先行きが暗く、それぞれが身を固くして自分を守るのに精一杯な、あらゆる面での余裕がない時代に見える。自分自身こんなはずじゃなかったとぼやきながら、日々の生活に追われている。
それでも不思議なことに、そこそこ愉快に毎日を過ごしている。確かにお金は無いけれど、無いなりの愉しみはあって、少しずつ取り戻せてきた時間的な余裕をそれらに振り向けている。

聴く、読む、歩く、飲む、書く。

結局、十代の頃身についた習性に戻ってきている。ムダな金だ時間だと散々言われたけれど、どっこい時を経て貴重な資産になっている。


35年前、まさかこんな中年になるなんて想像もしていなかったけれど、当時と今がしっかり繋がっているのは実感できる。
あの頃の“あそび”が今の自分を形作っているから、子どもたちの“あそび”もなるたけ邪魔しないよう用心しよう。


 

本を運んでくる人

実家にいた頃、我が家には本を運んでくる人が二人いた。一人は街の本屋のたらばさん、もう一人は父だった。


たらばさんは月に一度、『噂の真相』と『家庭画報』を届けてくれていた。
ウワシンはいかがわしさ満載だったので最初はコソコソ読んでいたはずだが、いつの間にか「ウワシンまだ来てないの?」と親に尋ねるようになっていた。
家庭画報については、バックナンバーが綺麗に並べられた玄関の本棚を思い出す。


父が最初に私に持って帰ってきたのは、『モモちゃんねずみのくにへ』だ。幼稚園の頃、ある朝起きると枕元に置かれていた。

装丁がカラフルだった一方で、ジャングルジムの周りをモモちゃんがぐるぐる走るページは黒くて…詳しいストーリーは覚えていないけれど、ひたすらダークな印象がある。あらすじを検索してみると、ねずみのくにへ行ってしまったコウちゃんをモモちゃんが助けに行く、とあり合点がいった。私の弟もコウちゃんだから、きっと重ねて読んでいたのだろう。
この本の後味が、今でも私の好みのベースにはある。


つい先日、今年も父の命日が巡ってきた。私にとって父はどんな存在だったのかを振り返ると、「本を運んでくる人」というのが一番しっくりくる。

自分が携わった本だけでなく、自社の本、興味で集めた本、習慣的に買っていた様々な雑誌、幾分ジャンルに偏りはあったが、沢山の本が我が家にはあった。私が望めばどんな本も買ってくれたし、父の会社の雑誌をせがめば重いのも厭わず毎週持ち帰ってくれていた。

あんなに恵まれた環境にいたのに、自分の読書体験の貧しさには今更ながら溜息が出る。


何はともあれ、父が惜しみなく本を運び続けてくれたことが私にとっては一番の贈り物だった。父が亡くなって早十数年、ようやく言葉にすることができた。